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「大石練吉です」
はじめて往診に行つたときの相沢の濁だみ声が耳に蘇よみがへつて来た。それから、あの粗末な黒い上着と、カーキ色の目立つ乗馬ズボンと、又あの鼠を思はせるやうな黒味の拡がつた、ちつとも目瞬またゝきをしないふしぎな眼玉とが、房一のつむつた瞼の中に現れて来た。
来客の間にほつと寛くつろいだ空気が流れ、直造が袴をさばいて立ち上らうとした時だつた。
房一は下駄をつゝかけて外にとび出していた。何気なく腕時計をすかして見た。七時半だつた。まだそんな時間か、とびつくりして考へたのをおぼえている。すぐ傍を、人が駆け抜けていた。房一も走り出した。どういふものか、さつきうす暗がりで見たぼんやりした小さい白い時計の文字盤が頭の中で見えていた。走り出した方は真暗らな畑中の路だつた。今、房一の右にも左にも誰とも判らない人が一杯で、腕や肩がぶつかつた。小谷も練吉もいつしよに駆け出して来た筈だつたが、どこにいるか判らなかつた。
「誰かと思つたよ」
「さうです」
房一はさつき起き出したばかりであつた。歯ブラシをくはへると、井戸端で向ふむきにしやがみこんだまゝ、何をしているのかまだ顔も洗はないやうであつた。その円く前こゞみになつた、背中から、口のまはりに白い歯みがき粉をつけた顔がくるりと向きなほると、
「わしは反対だ!」
「先代がぽつくり死にましてね。おかげでこんな所へ引つこむやうになつてしまつたんですが」
威勢よくやつて、相手にされると腰を落ちつけて、人の好さがまる出しになつて、大声で喋りまくる。と云つても、彼自身には何の話の種もないので、多くは人の相槌を打つたり、今他人から聞いた通りのことを彼の声音で何か別の話のやうに見せながら話すだけなのである。
「あんたは鮒をたべなさるかね」
築地には四五本の木材が立てかけられて、玄関に通じる石畳の上には鉋屑が一杯に散らばつていた。その白いのや紅味がかつた真新しい木の色はふしぎな生気をこの家に与へていた。あの低い大きな屋根がぐつと身を起したやうにさへ見える。