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「ねえ!」
疲労したあまり不機嫌になつた大石練吉は、手荒く疳性かんしやうに衣裳をくるくると巻きながらいつもよりも激しくその切れ目をぱちぱちさせて云つた。
「うん、寄りがあるからな、あんたはうちに帰つとんなさい」
黒光りのする戸棚の蔭からびつくりしたやうな義母の円つこい眼がのぞくと、
といふやうな声を出して、彼は満足と緊張とのためにあの調子外れな表情になつて、撓しなつた竿をしつかりと引きつけはじめた。
彼のかういふ復讐が完全に成功した後、又町側の子供等からの復讐が企まれた。それは夏の頃で、河では水泳ぎがはじまつていた。子供達の仲間々々によつて河もその泳ぎ場所がきめられていた。町場の者は稍上手かみての大きい岩のある淵のあたりで、房一たちの組はその下手しもての淵からゆるやかに流れ出た水が、次第に急に流れはじめる一帯の、やはり岸には大きな岩があつて、流れの中央に僅かに水面から滑めらかな背を露はしている岩があつた。そこでは水は泡こそたてなかつたがよく見ると縞のやうな流線を造つて速く流れていた。房一たちはその岩の背に匍はひ上つては水の中に滑り滑りしていた。上流では町場の者等が泳いでいたが、彼等は諜しめし合はせていつのまにか流を泳いで下り房一たちの場所に襲つて来た。意味のない叫声や、水沫や、それらが入り混じつているうち、彼等は房一の足を水中に引き、頭を押へつけにかゝつた。他の者はいつか岸辺に匍ひ上つて、遠くから房一の追ひまはされるのを心配さうに眺めていた。およそ日焼けした小さな裸体の群の中でも房一の身体がよく目立つた。岩に匍ひ上り、水に跳びこみする彼の黒い皮膚が水に濡れて日を浴びきらめいて見えた。そのうち彼は姿を消した。やがて、岸にいる者の眼には、彼がはるか下流の水面にぽつくりと頭をもたげたのが認められた。彼等はそのとき始めて歓声を上げた。そして、思ひついたやうに石を拾つて河の中の敵に投げはじめた。房一はそのとき対岸に上つていた。岸に立つて首をたれ、ぶるぶるつと身体を顫ふるはしたかと思ふと、水を吐いた。それから、上手に新しくはじまつた合戦を一瞥すると、それはまるで他人事ひとごとのやうに自分の衣物をひつかゝへて、さつさと家の方へ一人で立ち去つてしまつた。
鍵屋へ招かれた時から房一の頭を占めていた考へは、その席で恐らく河原町の人達が彼をどんな風に見ているかがはつきり判るだらうといふことだつた。かういふ集りでは皆が皆自分の据ゑられる席の上下を可笑しい位に気にする習慣を房一はよく知り抜いていた。
「あれは何でせう、知吉さんといふ人は悪く云ふと娘をひつかけて相沢の家に入りこんだやうなもんでせう」
「や、失礼、おさきに」
と、敬遠するとも小莫迦にするとも見える頭の下げ方をして、さつさと行つてしまふのであつた。
この物語の主人公である高間房一の生ひ育つた河原町は非常に風土的色彩の強い町であつた。海抜にしてたかだか千米位の山脈が蜿蜒としてつらなり入り乱れている奥地から、一条の狭いしかし水量の豊富な渓流が曲り曲つたあげく突如として平地に出る。そこで河は始めて空を映して白く広い水面となり、ゆつたりと息づきながら流れるやうに見える。その辺は平地と云つても、直径にして一里足らずの小盆地で、奥地から平凡になだらかに低まつて来た山々は一面の雑木山で、盆地の端に立つと向ふ側の山も殆ど手の届くやうな感じに近く見える。さういふ平地を河は大きくうねつて、玉砂利の磧かはらがたいへん白く広く見える。芝草の生えた高い土堤がつゞいて、土堤の外側は水害を避けるための低地であるが、しかし不断は畑地になつていて、その又向ふに土堤よりは一段と高く思ひ思ひの様子で築かれた石垣があり、そこに河原町の家々が裏手の土蔵の塀やあるひは小部屋などを見せているのである。そして、古びてはいるが大きい材木を使つた此の家々は一様に外面を白壁でかこんでいる。それは新しくて真白なのもあるが概して風雨にたゝかれたためうす黒い陰影がついて、その適度に古びた白さが、遠くから見る町並の中に点々と浮き上つて、此の河原町を一種親しみ深い快い様子に見せている。又、町の裏手の山腹に一所、ちよつと見は大きい土くづれと思はれるやうな赤土の露出している箇所があつて、その色があまり鮮かなので、白壁の多い町といゝ対照をつくつて、それが又この町を特別美しいものにしている。これは銅山の廃坑であつた。
身体を拭きにかゝつていると、台所の土間の方で、誰か来たらしい、盛子に向つてしきりと何か云つている声が耳に入つた。それは、せきこんだ、悲しげな、訴へるやうな女の声だつた。
さつきから、日のあたる縁側近くに縫物を持ち出していた盛子は、あんまりびつくりしたのと身体が重いのとで、立上ることを忘れてかう感嘆詞を連発しながら、あの語尾の跳ね上りを少し響かせながら、庭先に現れた人影に向つて目を瞠みはつていた。